『 認知症からの回復も早期発見が必須! 』
−前頭葉のチェックは1995年から実施例があるー
2016年11月6日 中山 明俊
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《認知症にはなりたくない。どうすればいいか》
高齢期になると自分も認知症になるのではないかと心配になる。
しかも認知症になると、はじめは記憶をなくす程度であるが、さらに進行していくと、今までの自分が自分でなくなる。これまで分かっていたことが分からなくなる。意識していることが正常でなくなる。つまり、人格が変わってしまう。こんな恐怖が高齢期になると襲ってくる。
さらに、現在のところ 認知症になる原因物質はアミロイドベータの蓄積によって脳細胞が壊れていく。やがて認知症になることは分かっているが治せるような治療法はまだ分かっていないという。そんな不安に襲わるのは私だけではないだろう。
では、認知症にならないために何をすればいいか?何を心掛ければ認知症ならなくて生きていけるのだろうか。
認知症の本を読むと、通常高齢者が気をつける生活習慣病にならないための心得、つまり、「運動しなさい。食べものは控えめに、好奇心や生きがいを持って生きなさい」。そのように生きれば脳も効果があると記してある。そのような生活をすればそう簡単に認知症にはならない、という。しかしそんな言い方ではちょっともの足りない。本当にそうか、納得するために生理学を踏まえた理由付けがほしい。
では、「生活習慣病にならないための生活習慣を守りなさい」というその理由付けは、一言で言えば、「脳内の血流を良くして、酸素も栄養も十分に供給して、活き活きとした活性化した状態を体全体に保っておけば、脳も若々しく維持できますよ」というのである。脳も、首から下のいろいろな臓器や器官、組織とまったく同じ原理で動いているから、それと同じことをすればいい、ということだった。つまり、過酷な使い方をしてもいけないし、イージーに全く自由放任奔放に気にかけない使い方をしてもいけないということのようである。
では、「生活習慣病に配慮した生き方を続けていればいい」といっても冒頭の認知症になるかも知れないという不安はそれほど消えない。
《死ぬかも知れない恐怖が迫ったときでも認知症になるだろうか》
「身近なところでテロが頻発し、いつ巻き込まれるかもしれない」という危険な環境の中で生活することになったとき、認知症になっている余裕があるだろうか。逃げ惑うことに必死になって、どう対処したらいいか、対策に追い立てられたならば、認知症になるようには私には思えない。もっとありそうな状況を想定してみると、「がん」を発症した末期がんであることを告知された。まだ子供たちは成人していないのに「余命は1年」と告知された。まだ死にたくはない。こんな状況の人が認知症になった例があるだろうか。
このように考えると、心配事がなく幸せに暮らしていると、「もしかして認知症になりやすいのではないだろうか。ストレスで思い悩んではいけないが、「あれもやりたい」「これも知りたい」と脳の中を活動的に働かせるならば、脳内の未使用部分を新たに活用領域に取り込み、それだけでも脳の活性化を高めことになり認知症になる可能性は避ける方向へ向かわせることになるのではないだろうかと考えるようになった。
《認知症の学習はさらに進めていった》
まずはじめに、市川衛の「誤解だらけの認知症」という本に「認知症という名前のついた特定の病気はない」という記述に出会った。
認知症は次のように定義される、としている。
@記憶障害がある
A失行、失認、失語、実行機能障害がある
B前2項より社会生活に支障をきたす
C脳などに身体的な原因があると推測できる
D意識障害はない
この定義で概ね了解できた。
要するに「社会生活を自立して営めるか」が決め手のようである。
では、ATM(現金自動預払機)の操作ができない人は、認知症か。
さらに市川衛は、修道女がなくなった後で脳を解剖してみるという研究例を紹介して、解剖した脳内には空洞が多く見られて、認知症を発症していてもおかしくないと考えられる状況であった。しかし、本人たちは普通に集団生活を勤めていたという例が多く見つかった、という。それならば、認知症は暮らしの場の周辺環境の関係で、発症を確認されることがかなり多いと判断できる。
さらに認知症といえばアルツハイマー病といわれるぐらい認知症の主要症状である。(1)アルツハイマー病は認知症全体の56%で、そのほかに (2)レビー小体型 17% (3)脳血管性 10% (4)前頭側頭葉変性症 7% (5)正常圧水頭症 5% (6)その他 5%
と厚生労働省が発表している。認知症研究の中心はアルツハイマー病を開明に、そして治療に力が注がれている。
《認知症症状は広範囲に記憶障害から徘徊、暴言など多岐に及ぶ》
認知症は主要症状と周辺症状に2つに分けて捉えられている。
主要症状を[中核症状]といって認知症を発症したとされる判断要素になっている。
[中核症状] 記憶障害、見当識障害、実行機能障害
そして失語、失認、失行を伴う。
これらは記憶が消えていく、時間感覚や所在地感覚が混乱する、自分で段取りよく実行できなくなる症状である。
次に、周辺症状を[行動心理障害]と称して、環境要因とか、本人の心理作用が表れた症状を表現している。
[行動心理障害] 徘徊、物取られ妄想,幻覚、暴力、暴言、失禁、
昼夜逆転など。
そして現在のところ、根本治療法や完治させる薬は見つかっていない。
医学的処理も、症状を和らげたり、進行をいくらか遅らせる程度の対応治療が行われているのが実情である。
《なぜ徘徊が起きるのか》
これについては、概ね対応方法が確立している。
徘徊は大変に介護者を悩ませる認知症の人の行為である。介護者がちょっと目を離した隙に外出してしまう。そして介護者だけでなく、認知症本人も今どこにいるかわからなくなる。迷子になっている認知症者を介護者はどのようにして探していいかも分からない。それが夜間に介護者が就寝しているときにも度々行われるとまったく困りものである。
今どきは「GPSの発信機」をつけさせる方法もあるが本人が忘れて出たり、身につけていたものを捨ててきてしまえば結局探しようがない。まったくの困りものである。
徘徊に対しての対処方法は最近はっきり分かってきた。答えは、認知症の人の介護に対する拒否反応であることが分かってきた。認知症の人は介護者から「同じことを何度も言って!」「どこかにしまい忘れたでしょう」など、介護者から注意されたり、怒られたりする経験を積み重ねている。この警告されるような不愉快な感情は、認知症が重度になっても強く持ち続けているという。このようないやな、不愉快な状況から逃げ出す気持ちが徘徊をすることの表現であることが分かってきた。
この状況が分かってからは、介護者が認知症の人の言うことや行動を否定することなく、常に肯定的に同意して、ものをなくしたときは一緒に探してやるとか、徘徊を始めたと分かるようなときは、はじめから一緒に外出に同行するような行動をとるように心がけると、徘徊は起こらなくなったという報告が聞かれるようになった。
周辺症状の「暴言、暴力」も認知症の人の防御行為であり、抵抗行為の現れであると理解されるようになり、介護者が穏やかに認知症の人の言い分を親切に対応するようになったら、穏やかな落ち着いた生活状況になった例が多く記録されるようになった。
しかし、このように穏やかに対応し、言い分をじっくり聞くようにすることは、手間隙かかることであり、介護者が忙しいときはそんなに時間を取れないということも多いだろう。できればそのような緩やかな介護姿勢を守れば、困りものの周辺症状を起こさせない良策ということは明らかになってきた。
《認知症の人が自分の気持ちを手記にすることを指導した医師は》
NHKの『認知症革命シリーズ』という番組で、島根県出雲市の精神科医高橋幸男さんが認知症の人に「手記を書いてみる」試みをしたことを放映していた(2015.11.15)。認知症の人たちは、介護者からのいくらかの援助を受けて立派に手記が作成できた、と内容だった。、それによれば、認知症の人も「喜んだり悲しんだり、感情があることをしっかりと表現されていた、というのである。
この手記を手がかりに感情を読み解くと、明白に徘徊や暴言はその感情の表現であることが見えるという。その感情を汲み取って、認知症の人に向き合えば穏やかな感情の動きを生む出す介護の方法が明らかになってきたというのである。
《アルツハイマー病はどんな形で進行するのだろうか》
このような状況が分かってきたとき、私は認知症の症状が比較的軽度から重度の認知症へ進行する過程で、脳内ではどのような変化が進んでいくのか知りたくなった。インターネットや書籍をいくつか探してみたが、明解に答えてくれるものはなかった。
私が求めるものは、記憶障害は、新しく保存された記憶から消えたいく、若いころに記憶された古い情報内容は長く保たれ、記憶から最後になって消えていくという説明をされている、それを脳内の特定域と結びつけた解明ができないだろうかと考えた。しかしそれは無理な注文だろうか。
この着想から、インターネットで検索を試みた。興味あるホームページに出会うことができた。その情報内容は前頭葉の働きと機能低下の様子、前頭葉の指令とによって、右脳、左脳、運動の脳が働いていることとその働く具合を測定できるという情報であった。
《世間の認知症対策はもう手遅れな重度障害を対象にとらえている》
医学では早期発見、早期治療と繰り返されている。少なくともそれが鉄則であろう。
しかし、現状の認知症治療はこの手遅れな症状の段階で、発見し治療を始めている。だから認知症を完治させる治療の方法もなければ、完治できる薬も開発できていない、という。
では、直前のところで見つけたホームページは、もっと早い段階で認知症予兆を捕まえ、そこから対策を考えれば十分に完治させる治療法が発見できる、といい、それは実施可能であるという。
そのホームページはエイジングライフ研究所のページである。
http://www.ageinglife.jp/
認知症についての現状では検診システムのような制度は出来上がっていない。本人がちょっと変ではないか、と自覚した場合、あるいは家族が日常行動がおかしいから医者へ行って診てもらったら?ということで初めて検診が始まる。本人も家族もはじめのうちは高齢化の一般的な老化現象ぐらいに思っているからどうしても医者に見せることが遅くなる。早期発見はもともと難しいのである。その意味では、エイジングライフ研究所のお勧めは、いわゆる、認知症状の早期検診システムの提唱である。
では早期発見の手がかりは何か?
それは、脳の前頭葉(脳の前頭前野という場所)が異常に機能低下を起こしているが、脳の他の領域はすべて正常な状態を「小ボケ」と定義する。→→回復容易。
次に前頭葉の機能低下に含め右脳領域、左脳領域、運動の領域に機能低下が現れた状態を「中ボケ」と定義する。→→回復いまだ可能。
さらに進んで認知症の基本症状(自立して社会生活を送ることに支障が起こる状態)が出たとき。「大ボケ」と定義する。→→回復困難としている。
(注)最近は「ボケ」の用語は使わなくなったが、紹介したホームペー
ジは2012年に作成されたページで現在もそのまま使われている。
ではこの「小ボケ」「中ボケ」「大ボケ」の状態をどのように判別するか。
1万5千件のデータをもとに「かなひろいテスト」「MMSテスト」を実施して、見当識、記銘力、注意と計算、想起力、命名、復唱、三段階口頭命令、書字命令、図形の模写の10項目をチェックして判別するとしている。
この方法は医学的な判定ではなくテスト結果の判定方法がとられて、早期に回復行動をとるべき人を判別するために一応妥当な答えが出るように認められていて、すでに「440」の市区町村で保健指導とあわせて実施されているという。
このエイジングライフの発想は、認知症の人の90%を占める人たちが脳の廃用性萎縮(体の機能を使わないから劣化をしてしまう仕組み、つまり四十肩、五十肩と同類)に基づく機能低下による認知症状に着目して、その状態の人たちを早期に回復のための努力を始めてもらう企みの実現したところにある。
そして、この高齢化による機能低下の要因は、脳を使わない生活習慣にあるとして高齢期に陥りがちな生きがいなく趣味もなく交遊なく運動もしない、そして目標となるものもない、このナイナイ尽くしの「単調な生活」を送らないように心がけ前頭葉の持続的活性化を図っていくために、保健師活動をサポートしていくことに力を注いでいきたいというものだった。その活動は今も続いている。
《ここまできてやっと副題の「小冊子を所在を探す」に入っていける》
長いこと認知症問題を論じてしまい申し訳なく思うが、認知症の理解を含めていただきたいとも思い、つい記述してしまった訳けである。
そこで、エイジングライフ研究所の話題に入る前に掲げた、「認知症の進行は脳のどの部位の機能障害で順次進んでいくのか」についての回答は結局見出せなかったが、このエージングライフ研究所の着眼点である「前頭葉」「右脳」「左脳」「運動の脳」の機能低下に着目して早期発見の方法に道を見つけている点に私は強く関心をもち、エイジングライフ研究所方式の方法論が私の考える認知症対策の今後に役立つように思えてきた。私の認知症の対策の探索はここで一区切りとすることにした。
さて「小冊子の探しに3日間を費やす」の経緯をしょうかした。その小冊子は、エイジングライフ研究所が作成販売しているものであるが、その小冊子を私は5、6年前に小さなある会合でメンバーの一人が配布してくれた。受け取ったときは認知症についてもまだ関心が高くなく、他の文書の積み上げた中にそのまま置いていた。しかし表紙の印象だけは記憶に残っていた。エイジングライフ研究所のホームページの中に小冊子の画像が見つかって、もしかしてあのときの小冊子かもしれないと気付き、企業秘密のようにエイジングライフ研究所のに「小ボケ」「中ボケ」「大ボケ」判定基準などの記述があまり親切でなかったためそのノウハウのいくらか分かるのではないかと懸命に3日間探したというのことである。
なにしろ、B5版32ページちょっと厚紙でできているが、大して厚くもない。自分の部屋のそこここに雑然と積み込んだ山からその小冊子を見つけ出すには、あるいは書棚に並べてある本の間から探し出すには一つ一つ移し代えていくしかない。探していく残りの山の数がだんだん減っていく、やっぱりないのかと思いながら3日間を過ぎた後、やっと見つかった。思っていたものを見つけ出すことができた。ページを開いて内容を確認したら求めていた情報のいくつかは満足できる程度に得ることができた。
この粘り強さと探求心ならば、まだ当分「認知症の心配はなさそうである」といってもいいように思えてきた。 (終わり)
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